多様性の受容

2012年7月22日 趣味
食物アレルギーの理解が進んできたのって、ここ10年ぐらいのことなんじゃないかと思う。

加工食品のアレルギー物質の表示制度が始まったのは平成14年。好き嫌いとか好みではなく、「食べられないもの」「食べないほうがよいもの」があるということが認められつつある。そうはいっても、まだまだ食べ物を残す、特定のものを食べられないということに対して、嫌な顔をする人もいて、まだまだ「られつつある」の状態なんだろうなあと思ったりする。

ハラスメント防止の取り組みが推進されてきたのも、ここ10年ぐらいのことのように思う。企業や団体の中で「ハラスメント防止規定」が定められたのもこのころ。

権力や立場を利用して何かを強要するのはハラスメント。飲みたくない人にお酒を強要するのはハラスメントだ。こんな意識も、なんとなく広まりつつある。これもやっぱり残念ながら、つきあいが悪いとか生意気とか、たかがこれぐらいでハラスメントなんて考えが固いという非難を受ける場面もまだまだ少なからずあるのが現状で、「つつある」状態なんだろう。

これらの改善が急務である!とこの記事で言いたいわけではなくて(もちろんそれらは大事なことではあるんだけれども)、「できない」「無理強いをされたくない」ということを受容する社会に変わりつつあるなあということ。

これまで、暗黙の了解の中で多くの人が我慢してきたことが、ガマンしないでも良い、という方向になりつつある。疑問に思うこと、苦痛なこと、不可能なことについて、NOを言えるような枠組みが作られようとしている。

なんで女性社員がお酌をしなければならないのか、新入社員が余興を強要されなければならないのか、「なぜ」という疑問や怒りを持つことが許されるものにしていく動きを感じる。もちろん、その一方で、実際それをぶつけたときに、社内での居心地がこれまで以上に良くなるという保証は残念ながら無い環境もあろうけど。





最近、「なぜ我が子に宿題をさせなければならないのか」という考えを持った方に出会った。その方のいうところによれば、我が子(小学生)に宿題を強要されるのはおかしい、家庭での過ごし方にまで言及されたくない、と。その宿題というのも、ドリルであったり書きとりであったり、特別に変わった内容や量でもない様子。

「宿題はをやるのは当たり前」という暗黙の了解につきつけられるNO。これはすごいことです。あと10年もすれば、今ある社会の枠組みなんて、およそ変わってしまうんじゃないのかな。

個人的な経験則からいえば、小学校ぐらいであれば漢字なんて書いてなんぼだし、これをせずして、という気がします。

まあ、学校なり先生に言われなくても(宿題を出されなくても)、自分で練習するのが望ましいという考えもないではないです。その子なりのやり方、家庭の考え方というのもあると思うので、画一的な宿題というものに対する批判も分からないではない。

ただ、だからといって宿題を一切出さない先生っていうのも、多分また別の考えの保護者から批判を受けるんだろうなあ・・・。

多様性をどんどん受容する社会。多分、これからも加速するんでしょう。

学校の先生は魔法使いでも神様でもないから、多分こういう問題を解決できない。別に、先生に力量がないからではない。

「先生、バシっとやっちゃってよ」と毅然とした対応を求める保護者が増えているようだけども。「バシっと宿題を廃止する」という毅然さもあろうし、「バシっと宿題提出を求める」毅然さもあるだろうな。多分、それを言った本人としては、「私の言うことが正しいんだから、バシっと決めちゃってよ」ということなんだろうけど。


NOを言える社会だからこそ、どんどんストレスとジレンマがこれから増えていくような予感がしています。

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