年の差

2012年9月19日 趣味
「○○さんと同じ年ぐらいの息子/娘がいるんだよ」とか、「○○さんぐらいの年齢の子どもがいてもおかしくないんだ」なんて言い方の上司がおりますが。


正直なところ、親と同じ世代という認識は私にはあんまりなくって。

どちらかというと、そうか、こういう世代が将来の舅/姑か・・・という認識。


「よそはよそ、うちはうち」という至高の格言があるように、この人が自分の親だったら・・というのはまあ本当に仮定の話でしかないわけです。よかろうとも悪かろうとも、「うちはうち」なので。

ただ、「よそはよそ」でも、将来の義両親となりうるのが社会の怖いところ。

その上司が「いい舅」になりうるかというのは、なってみないと分からない、なられた人にしか分からない部分もあるけども。

「嫌な舅」かどうかの判断はなんとなくつくもんで、人間っておもしろい。


Aさんが自分の親だったら耐えられんばいと思うときもあるけども、まあ昔からそういう育てられ方をされたら、そういう考えも受け入れるのかなと思わなくもない(もちろん、将来自立した後に距離をおく可能性もある)。幼少のころから20年近くも時を同じにするというのは、やはりそれだけ浸食される部分も多いと思う。

ただ、この人が義理の親だったら・・・それはもう、文句なしでムリムリムリムリ!!って場合はあるよね・・・・・・・。その結婚待った!と言いたくなるような(言わないけど)。


向こうだって願い下げ、というのもあるんだろうけど、そういう人に限って、自分が嫌われるはずがないとか、自分の考えが絶対に正しいとかそういったことで揉めそうなので、なんというか平行線だろうなあ・・・。


特定の人の愚痴になってるような、なっていないような。

「君はいいお嫁さんになりそうだ」というのはセクハラに当たるNGワードなので、「○○さんはいいお舅さんになりそうですね」とか「○○さんみたいな人がお舅さんだったらちょっと・・・」なんかもセクハラワードなんでしょう。別にセクハラワードじゃなくても言わないけどさ。

思ってるだけ、だけですよ。


初秋

2012年9月19日 趣味
季節の変わり目だなあ。

風がぐっと涼しくなって、心地よい。

そのぶん、風邪も引きやすかったりするけど。


もしかして、24年度もそろそろ半分終わりですか。

早すぎて、ちょっとどうしよう。


ユメミル

2012年9月6日 趣味
映画みたいに、空をとんで、屋根の上もジャンプしていけそうな、あの感覚はどこにいったろう。

そういう画を、いつか撮りたいと願っていた。

どこにいったんだろう、本当に。


歩く時間。本当になくなってしまった。意図的にそうした部分もある。そういう時間をお金で買う時代。

今も空に憧れて。


かみひこーきが、飛ぶといい。


目の前のチャンスをしっかり獲得できたら、多分次のフィールドまでやってくるでしょう。

もう1回しかチャンスはないから、どうかここでという気持ち。傍観しているのは、余裕はあるけども、スリルには欠けるね。

自分もとおってきたからこそ、一緒に通過したかったなという思いもあった。少し、時期を間違えただろうか、なんていう結果論。

だけども、もうあと10年はこういう逸材は出てこないだろうなというのはなんとなくわかる。

あんなのはもう絶対に揃わない。


俯瞰。良いようで、あんまり良くない。

だけども、どこかでやっぱり、しっかり決めてくるんじゃなかろうかという期待。


期待は人を伸ばす、絶対に伸ばす。

音階

2012年9月3日 趣味
今年は本当にすごい年。2年先も3年先も分かんないけど、これほど怒涛ってことはないんじゃない、ってぐらい。

3年経ったら、もっと経験していることも増えて、もっといろいろなことがルーティーンに入れられるはずだし。

最近、ちゃんとしっかり文章書いてなくって、数年前書いたものを読むとみずみずしすぎてどうしようって思う。

じっくりじっくり、あの頃みたいなものが書きたいのに。

どうしても世界がせまくって、あの頃みたいに歩いている時間も少なくって、見る世界も早く流れていって、息をする感じも変わってしまった。


だんだんと月が大きくなっていく空、手入れされた庭木、よそのお宅の夕飯のにおいをかぎながら、ちょっとほっとする帰り道。あんなふうに、最近、歩いていないな。

鳥が飛ぶところも、稲穂が揺れるところも。そんなに田舎育ちでもないけども、そういうのを見ながら過ごす時間は大切だったな。

何かそういう、ものを見て感動っていうのが最近、すごく少なくなってきてる。人を交流を持って、情動的になることもあるけど、そういうのとは違う、はたらきかけなしの何かを受け取りたい。


久しぶりにマクドナルドのテリヤキを食べたんだけど、もうちょっとボリュームがほしいなって思った。

たまごとか、いいよね。

それってあれか、いわゆるテリタマってやつか。確か季節限定の商品。あと、月見バーガーっていうのもあった。

なんでたまご系は年中ないんだろう。


そんなに年中マクドナルドばっかり食べてるわけじゃないけど、だからこそ食べられたらいいよなー。


旅行の日程

2012年8月28日 趣味
旅行の計画を立て誤るとつらいな。

予約した頃は、結構気持ちが盛り上がってたんだけど、日にちが近付くとだんだんひるむ。はじめてというのもあるけれど、ちょっと気軽にはいけない旅行を計画中。

いつかは行きたいなーという気持ちで、今年はちょっといろいろチャンスだったので、勢いで手配したところもある。だけどまあ、そこも埋まる寸前ではあったので、やっぱりハードルが高いなあと思ったり。

もうちょっとまったりしてる予定だったんだけど、なんかそれどころじゃないぐらい忙しくってどうしよう。だからといって、来年にしたって予約取れたかどうかあやしいなーというところもあるし、来年のその時期は休みにくいかもしれない。ああ、その可能性は捨てきれない。

行きたいところではあるし、まあなんだかんだで行くように準備はするんだけど。

これだけに専念できたらどんなにいいか、そんなむしのいい話はないけどもさ、なんか旅の支度が義務みたいで苦しい。

今年はなんかホントにハイペース過ぎた。来年は落とせるところ落とそう。


なんだかんだでまだ泣けてないな。別に、アイドルでもなんでもないんだけどさ。

流行りの一人カラオケもしたいんだけど、喉を温存しときたいので結局機会を逃している。別に、やっぱりアイドルでもないんだけどさ。


あと2週間ぐらい頑張ればいいのかな。そういいながら、もう2ヶ月くらい経ったって知ってる。

むつかしいな。


自分だけじゃない、って言い聞かせながら、でも自分だけ過剰な負荷がかかってる気はしている。

人は私にどれだけ負荷がかかっているか分かんない。同時に、人にどれだけの負荷がかかっているか、正しく理解なんかしていない。

ちょっとよりかかりたい。ちょっとですむかな。
思いがけない音楽を聞いて、あああの頃聞いていた曲だなと思い出す。

あれは寒い季節だったな。春はもうすぐとは言いながら、まだまだ雪が降っていてとてもそうとは思えなかった。新しい春はどこでどうしてるだろうなんて考えながら、不安があったような気がする。

ちょうど節目のころで、でもあんまり覚えてない。

小さい子どもを育てている人の言葉に印象深いものがあった。幼子を育てるのに必死で必死で、覚えてないことのほうが多いのだと。

何事も、はじめというのはそういうものなんだろう。

私には子どもというものがいないので分からないのだけれど、育児においてもPDCAを回したりするんだろうか。

夫婦ともにそういった就労キャリアがあって、そういう意思決定の方法になじみのあるところは、家庭内においてもそうだったりするととっても興味深い。あるいは、そういうことが仕事においては定石にあってる夫婦であっても、家庭では別なのだとしたら、それはそれで大いに興味深い。



ぐるんぐるん、まわせたらいいんだけどな。
まわんないよな、なかなか。


なーんも変わってないような。
そんな気がする。

今がんばってる気になってるけど、当時からするとどうなんだろうな。
この夏はスイカにはまり、中でもカットスイカを好んで頻繁に食べてました。近所のスーパー3つぐらいかな、ぐるぐる食べてみたんだけども、圧倒的にA社のカットスイカが上手い。

時間が経っても、みずみずしさと歯ごたえが失われない。ちゃんと甘いし、ぺしゃっとならない。あと、なんといっても種がよけてあるので食べやすい。

3点目に関しては、もったいないような気もするんだけど、食べやすさが全然違って、まあそのぶん割高なんだけどさ、やっぱり違うなあという印象。

夏の後半は、断然A社のスイカ食べてました。

スイカの季節も終わるなあ。桃とかぶどうとか梨とかが出回り始めました。

秋になると、やっぱり何か特定のものにハマっていて、そればっかり集中的に食べていたような記憶があるんだけど、それがなんだったのか思い出せない。

翌日の仕事なり学校なりに意欲的でない。具体的に不愉快なことがある場合から、特に苦痛があるわけではないんだけどもなんとなく億劫な場合まで。

嫌だなあ、行きたくないなあと思うから、なかなか寝付けないし、眠りに入らない。あるいは、仕事や学校よりも安らげるものがあると、なかなかそれがやめられない。

かくして、だらだらと寝る時間が遅くなって、次の日起きるのが辛くなって、仕事なり学校なりがますます負の対象になっていくんだけど。同時に、家で過ごす時間がもっと大事な時間になって、だけどもそれを続けられないことがストレスになっていくんだけど。


休暇明けは、特にこういうの増えるよねえ・・・。

仕事なり学校なりになんか楽しみが見つかるのが多分解決策なんじゃないかと思うんだけど、それもまあ、なかなかねえ。見つかるというよりは、見つけるほうが手っ取り早いんだけども、そうそう気持ちの持ちようも変わらないよね。

どうせやるなら楽しんだほうが勝ち、とはよく言ったもの。それはまあそうなんだろうけど、勝ってる人がいるということは、負けてる人も多分いるってことでしょう。
音楽に救われるというのは、結局のところ問題解決には結びついていない「救い」であって、気の持ちようの部分の「救い」に他ならないのだけども、それだけ、人間の心はストレスにさらされてボロボロということなんだろう。

今、人生の指針を見失いかけて、周りにあるものもどう向き合っていいか分からなくて、時間もほしいけど、機会もほしい、結局逃げ道を探してるんじゃないかという向きもある。

あまり関わりたくないものも多くて、だからといって無視もできずに。

心というのは難しいな。ここ数年、安定してきたはずだったのに。


どう生きるのがよいのか。あるいは、どう生きることが可能なのか。どんな道が残っているかな。


口を割ってしまったら、ある面で救われ、ある面で苦しみを得た。

後押ししてくれたロックンロール。終わりまで支えてくれたロックンロール。

そんなものに救われるから、大人として、揺れるんだよという向きもある。
やばい、つらい。

こんなときこそロックが必要なのか。

いや、そんなことしてる場合じゃないのか。


心も結構ヤバいけど、体もそろそろ限界かもしらんね。

なんだか最後は、拷問を受けているような気分だった。

絶対口は割れないぞ、的な。

ここでは口は割れないんだ、的な。


打開策なし。検討の余地もなし。コネクションもなし。


孤独に近いけど、孤独とは多分言わない。
孤立というのかな、ちょっと違うな。


しかし、全く、何のいわれがあって。

あと2日

2012年8月1日 趣味
あと2日したら、思いっきり泣いていいよ。
だから、あと2日、頑張ろう。



泣いても解決にはならない。そんなことは分かってるけど。

不条理な世の中。幼児退行もやむをえないけどもほどほどに。

苦しいけど、苦しいけど、苦しいけど。

多分、来月になったら、また平穏を取り戻す。
何もなかったような顔をして。



夜明けの決意

2012年7月30日 趣味
終わりが来る。また新しく、これからを考える。多分、しばらくは引きずる。いいことも、よくないことも、色々なことに向き合って。


私は、立派な大人ではないけど、真摯にやっていきたい。いつか、夢もかなえたい。

その先、何があるかは分からないけど、もしかしたら、続けられないかもしれないけど。

必ずプラスに変える。これだけは固く決めて。絶対に、無駄にしない。後悔の要因にもしない。

いつか、憧れたみたいに、年を重ねて。どこでそうしてるかは分からないけど、そうやって生きていきたい。
苦しいけども、どうにもならないし、泣くに泣けない。明日、コンタクトが入らないと困るのだ。

だから。
CDを1枚、新しく買う。徹底的に聞く。

解決法になんかならないけど、今自分の中にある気持ちを音楽の中に記憶させる。将来、この曲を聞けば、必ずその当時の状況を思い出せる。


本当はじっくり考えたいし、向き合いたいけども、もうどうしようもない。だから、未来の自分に託して。

今はどうにもならないけど、将来の自分なら、何か見つけてくれるんじゃないかとか。今日のこの経験も、忘れたくない感情も、何かに変えてくれるんじゃないかと。

自分の中にある感情がホンモノだなと思ったら、私はたいがいこうしてます。意図せずタイムカプセルを作ってることもしばしばなんだけど。

当時に比べて、変わったよと言えるときもあれば、また一つ未来の自分に先送りすることもあるけど。若い頃の感情は、大事にしたい。


こんな大人にはなりたくない、と思っていた自分に、いつの間にかなりつつある自分に気づいて、怖くなる。

必死に頑張りすぎると、いろいろ見えなくなる。だけど、いろいろあって、いろいろなことに気づいて、今がすごく怖い。


どうか、未来の自分が、なんとか折り合いをつけて、何らかの意思を持って、強く生きていますように。

すごい勢いで

2012年7月26日 趣味
すごい勢いで憂鬱がやってきた。この感覚は、以前にもあったからよく知ってる。原因もちゃんと分かっている。

泣きたいけども、明日目が腫れるのを分かっていて泣かない。


見て見ぬふり、聞こえないふり。


たとえるならば。

特に希望もしていなかった海外出張を命じられ、そもそも何のための出張なのかもあいまいで、自分に与えられた役割も分からないまま現地に赴いたような。

少しだけ視野が広がって、あるいは視野が広がったと錯覚して、元いたところの嫌なことばかりが目について。

ふと思うのは、転職を勧められているのではないかという勘ぐり。

分かっただろう、こんなところにいてはいけないよという警鐘。

なんて拡大解釈してみる錯乱の状態。


あいまいな状態に、私は弱い。

どこか、行く場所はあるのだろうか。

多様性の受容

2012年7月22日 趣味
食物アレルギーの理解が進んできたのって、ここ10年ぐらいのことなんじゃないかと思う。

加工食品のアレルギー物質の表示制度が始まったのは平成14年。好き嫌いとか好みではなく、「食べられないもの」「食べないほうがよいもの」があるということが認められつつある。そうはいっても、まだまだ食べ物を残す、特定のものを食べられないということに対して、嫌な顔をする人もいて、まだまだ「られつつある」の状態なんだろうなあと思ったりする。

ハラスメント防止の取り組みが推進されてきたのも、ここ10年ぐらいのことのように思う。企業や団体の中で「ハラスメント防止規定」が定められたのもこのころ。

権力や立場を利用して何かを強要するのはハラスメント。飲みたくない人にお酒を強要するのはハラスメントだ。こんな意識も、なんとなく広まりつつある。これもやっぱり残念ながら、つきあいが悪いとか生意気とか、たかがこれぐらいでハラスメントなんて考えが固いという非難を受ける場面もまだまだ少なからずあるのが現状で、「つつある」状態なんだろう。

これらの改善が急務である!とこの記事で言いたいわけではなくて(もちろんそれらは大事なことではあるんだけれども)、「できない」「無理強いをされたくない」ということを受容する社会に変わりつつあるなあということ。

これまで、暗黙の了解の中で多くの人が我慢してきたことが、ガマンしないでも良い、という方向になりつつある。疑問に思うこと、苦痛なこと、不可能なことについて、NOを言えるような枠組みが作られようとしている。

なんで女性社員がお酌をしなければならないのか、新入社員が余興を強要されなければならないのか、「なぜ」という疑問や怒りを持つことが許されるものにしていく動きを感じる。もちろん、その一方で、実際それをぶつけたときに、社内での居心地がこれまで以上に良くなるという保証は残念ながら無い環境もあろうけど。





最近、「なぜ我が子に宿題をさせなければならないのか」という考えを持った方に出会った。その方のいうところによれば、我が子(小学生)に宿題を強要されるのはおかしい、家庭での過ごし方にまで言及されたくない、と。その宿題というのも、ドリルであったり書きとりであったり、特別に変わった内容や量でもない様子。

「宿題はをやるのは当たり前」という暗黙の了解につきつけられるNO。これはすごいことです。あと10年もすれば、今ある社会の枠組みなんて、およそ変わってしまうんじゃないのかな。

個人的な経験則からいえば、小学校ぐらいであれば漢字なんて書いてなんぼだし、これをせずして、という気がします。

まあ、学校なり先生に言われなくても(宿題を出されなくても)、自分で練習するのが望ましいという考えもないではないです。その子なりのやり方、家庭の考え方というのもあると思うので、画一的な宿題というものに対する批判も分からないではない。

ただ、だからといって宿題を一切出さない先生っていうのも、多分また別の考えの保護者から批判を受けるんだろうなあ・・・。

多様性をどんどん受容する社会。多分、これからも加速するんでしょう。

学校の先生は魔法使いでも神様でもないから、多分こういう問題を解決できない。別に、先生に力量がないからではない。

「先生、バシっとやっちゃってよ」と毅然とした対応を求める保護者が増えているようだけども。「バシっと宿題を廃止する」という毅然さもあろうし、「バシっと宿題提出を求める」毅然さもあるだろうな。多分、それを言った本人としては、「私の言うことが正しいんだから、バシっと決めちゃってよ」ということなんだろうけど。


NOを言える社会だからこそ、どんどんストレスとジレンマがこれから増えていくような予感がしています。

物語の説得力

2012年6月12日 趣味
「やればできる」とか「信じていれば」とか「いつかきっと」とか、そういう希望を持たせる言葉が世の中には溢れすぎている。それだけ、そんな言葉にすがりたい人ばかりということなんだろうけど。

歌詞にしたって、そういう言葉がたくさんで、飽和しきっているような感じが否めない。

そんな中で強いなと思うのは、重ね合わせを上手く使っている作品。自分、あるいは著名な第3者に歌詞を重ね合わせる。ドラマなんかは顕著。

「だいじょうぶ」と一言言われても、まあ誰にでも言えるし結構無責任な言葉だと思うんだけど、ドラマの主人公とそれをめぐる物語を見てきた視聴者からすると、なんだかすごくいい曲ということにになる。プロモーションビデオなんかもしかり。

マルチメディアの融合力は絶大だなと。


反面、過程やパフォーマンス、著作者を一切鑑みない、純然たる作品の部分に興味がわく。作家の名前であるとか、その社会的権威であるとか、背景についているスポンサーであるとか、そういうことを一切排除して、ただただシンプルに、いいものを見たい。

再開

2012年6月8日 趣味
6年ぶりとかになるんだろうか。遠ざかっていたものに、もう一回近づいてみる。

あの頃、若かったなあ。
当時の感性が、まだ取り戻せるんだろうか。

根本は変わってないと思うんだけど、同じことができるのかな。それ以上のところまでいけるのかな。


もう、手放しで評価してくれる人もいないんだけど、でもその間にたくさんのものを見てきたし、いい出会いもあったから。

もう一度、当時と同じ感覚が出てくるといいなあ。

データがろくに残っていないのがちょっとさみしいから、もう一回、つくる。

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